6月
2009

いつもお世話に…

「いつもお世話になっております」

というのは、日本のビジネス文書の定番ですね。
もしかすると「いつも」と入力するだけで、「いつもお世話になっております」と変換するようにしている人もいるのかもしれない。
でも、本音を言うとこの表現、あまり好きではありません。
理由は簡単で、そんなこと書く暇があったら、さっさと本題に入れば?と思うから。
書くほうも読むほうも時間の無駄、ひいては情報トラフィックのロス
(たいした時間ではない?!)
でも、これが礼儀というものだから仕方ないのだろうけど…
同じ、時間のロスなら、心を和ませてくれる余談の一行でも書いてくれりゃいいものを…

そんなわけで、仕事であるにもかかわらず、三行余談を加えるメールを書く場合があります。
一つは大量に配信するニュースレターに丁寧に返事をくださる方への返信。
なぜなら、丁寧な返信を下さる方は、だいたい同じ人で、なおかつ楽しい出来事、感じたこと等を教えてくださるので、「いつもお世話になっております。今後ともよろしくお願いいたします。」だけ返信したら、そりゃ、ものすごく味気ないだろう、こっちだって何か北京の面白い話がないかなぁと思うわけです。

もう一つは、出版社のA氏への返信。
「台湾著作権法逐条解説」の出版はわたくしにとって「仕事」ではあるものの、たんなる仕事とは割り切れないもので「生活」の一部」でもあり「研究」という使命でもあり、ある意味「趣味」でもありますので、表面的などうでもいい言葉は置いておいて、楽しく仕事したいなぁというのがあって、失礼ながら、かなりラフな余談も書いてきました。
もっともA氏は日頃から携帯メールなどをマメに送受信されるとのことですので、わたくしに呆れつつもこのスタイルにお付き合いいただけるのかなと思います。
A氏の締めくくりの言葉は東京のお天気の話が多いです。
「今後ともよろしくお願いいたします」より「今日の東京は雨で云々」の方が、異国にいる身にとっては楽しかったりします。
(あ、でも、今後、知人全員が締めくくりに天気の話をしてきたら、冷や汗かも)

本当に効率よく仕事をするなら、三行余談は書いたり読んだりしてはいけないのだろうけど、仕事は人とするものだから、たまにはいいよねと、思ったりします。

6月
2009

仕事のダブルスタンダード

先日、ある日本人があるベテランの中国人弁護士さんのある行動について、「長く日本に居たのに、たいぶ日本的感覚がなくなってきたのか、ひやひやするような事してくれるんですよね」とおっしゃいました。

それを聞いたわたくしとしては、あぁ、きっとわたくしも日本企業に勤めたら、「常識がない」「いい加減」「失礼」なことを知らず知らずのうちにしでかしてしまうかもなぁと、ヒヤッとしたと同時に、そうはいっても、ここは中国で、生活のほとんどを中国人と共にしているので、対外的にだけ「日本基準」を維持するのは疲れるというのを通り越して、気が狂うのだけど…と思わなくもありません。
いちおう、今は対外的には日本基準で、内部では日本基準と中国基準を使い分けているつもりではいるのですが。

一般的な日本人のよいところをあげれば、
真面目で細かい。
仕事の基準が本当に厳しい。
いつも礼儀正しい。
信用・誠実を大切にする。
誰に対してもわりと公平。
チームワークがよい。

ちょっと乱暴な例えをすると、日本基準は120%の努力と成果を四方八方から強いられ、無言の圧力も含めていっぱいプレッシャーがかかるのだけど、中国基準だと98%でオッケーっていう感じですかね。日本人なら「2%もできなかった部分が残ってしまった」と青ざめるところですが、中国的には「ほとんど完成、何とか間に合った~」の安堵感のほうが大きい。最悪2%のクオリティの差によって仕事に多少支障がでたとして、ボスが恥をかき部下を叱ったとしても、お互い翌日にはけろっと忘れている…
外資企業で仕事をしているわけではないので、日本スタンダードを知らない人に日本スタンダードを押し付けることはできず(そんな権限もない)、その中で自分だけ日本スタンダードで生きていたら、気が狂うよ、きっと。
だから、わたくしも何があっても自分が最高責任者でもない限り、他人のために「ひやひや」してあげたりしない…
本当に100%完璧にできることなんてほとんどないわけですから、心身のバランスを保って長く仕事を続けるには「ほどよい加減」も必要なのではないかと思ったりもします。

多分、これがわたくしが中国人でもなく、中国人の親族がいるわけでもないのに長く中国で仕事をし続けられる理由だったりもするのではないでしょうか。

6月
2009

演奏と著作権

わたくしがここ最近、笛子やら洞簫とか、中国の民族音楽の笛にハマっているのはご存じのとおりです。

古典音楽や童謡等を演奏したい場合、このような楽曲は長い年月を経ているので著作権が及ばず楽譜などは採譜をされた方のネット等から簡単にダウンロードできたりします。

ところで、日本の古典といえば、「さくらさくら」でしょうね。
新婚旅行で行ったパリでは、日本語を話しながら歩いていたら、街頭ミュージシャンがそれまで弾いていた未知の楽曲をやめて「さくらさくら」を演奏してくださいました。

中国の楽器屋さんで日本人だとバレると、10人中8人が必ず演奏してくれる曲があります。
それは「北国の春」と「さくらさくら」

前置きはここまでにして、ここからが本題。

「四季の歌」というのはご存知でしょうか?
「春を愛する人は 心清き人 すみれの花のような ぼくの友だち…」と春夏秋冬続くあの有名な曲ですが、これは荒木とよひささんが作詞・作曲した作品で(聞くところによれば1971年に世に出て、大ブレイクしたのは1976年だそうですが、1964にはすでに存在していたようです。)、当然、著作権が及ぶので日本のウェブ等から楽譜を無償ダウンロードすることはできません。

わたくしは、初心者用の笛子の教材等をよく見る機会があるのですが、「四季の歌」はメロディが単純で、しかも音域的に初心者にとって非常に演奏し易しいため取り上げられることがあるようですが…どうやら一般的な中国人には、日本の民謡だと思われているようです。

民謡だったら、普通、作者不詳で作曲年なんかも大昔だから、著作権なんて関係ないだろうと思っているんじゃないかな。しかし、作曲してからたいした年月を経ていないのに国際的に民謡だと思われるほど浸透する曲というのは、すごいなぁと思います。

著作権というのは、私権なので別に権利者が権利を主張しなければ問題ないわけだけど…

しかしながら、パブリックドメインだと思っていたものが実は著作権の及ぶ曲で、そうと知らずに営利的な場で演奏して、後で指摘されたら怖いよね~

ちなみに、日本著作権法第38条1項、台湾著作権法第55条、中華人民共和国著作権法第22条第9号の規定によれば

①非営利目的で
②聴衆から料金を徴収せず
③演奏者に報酬が支払われない

のであれば、著作権者の許諾を得ることなく演奏できます。しかしながら、企業のショールームや商店の店頭などで演奏する場合などのように、全くお金を取らないとしても営利目的と判断されますから、注意が必要です。

そういう機会のある方は、あなたがクラシック又は民謡だと思っている曲が本当にそうかどうか確認しましょう(^^;

6月
2009

台湾著作権法逐条解説の修正

改正著作権法が2009年5月13日に公布施行されました。
逐条解説(原文)の執筆も徐々に開始されております。
本日、一応、条文及びとりあえずの解説の翻訳はすべてアップしました。
今後は、解説の充実化に伴う原文加筆に対応して、訳文も追加することになると思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
(昨日の「途中までアップしました」のお知らせは削除しました)

改正ポイントは以下のとおりです。

1. インターネット・サービス・プロバイダの定義の新設(改正法第3条第1項第19号)
2. インターネット・サービス・プロバイダに適用される第6章の1「民事免責事由の共通要件」(改正法第90条の4)
3. 各種インターネット・サービス・プロバイダは、そのユーザによる他人の著作権又は製版権侵害行為に対して、著作権法の所定の手続を遵守していた場合、損害賠償責任を負わない。(改正法第90条の5から第90条の8)
4. ホスティングサービスを提供するプロバイダが回復措置を行う際、遵守しなければならない事項。(改正法第90条の9)
5. インターネット・サービス・プロバイダが規定に基づき著作権又は製版権を侵害したとされる情報を削除した場合、そのユーザに対して賠償責任を負わない。(改正法第90条の10)
6. 事実と異なる通知又は回復通知を提出して他人に損害を与えた場合、これにより生じた損害について損害賠償責任を負わなければならない。(改正法第90条の11)
7. 主務官庁に授権して、法規命令により前述の新設・改正条文に関する各実施細則を制定する。(改正法第90条の12)

6月
2009

おひとりさまの必需品

日経ビジネスオンラインネタであります。

おひとりさまの人生メンテナンス術
特別対談 上野千鶴子×深澤真紀

http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090604/196681/

わたくしも「おひとりさま」みたいなものですから、興味深く拝見していたりします。
母と夫の介護が終わったら、貧乏で孤独な老婆というのが行く末かなぁとか思っていたりするので。

深澤 女1人で暮らしていて、電球を取り換えられなかったり、瓶のふたが開けられなかったり、固いネジが回せなかったりすると、「こんな時に男がいてくれたら…。ひとり暮らしってつらい」って思ってしまいますからね。
上野 確かにそう。
深澤 こういうちょっとしたことが、“おひとりさま”を生きるためのメンテナンスになると思うんです。
上野 全くそうね。

しかし、上記は自分には全然、当てはまらないのね。
わたくし、身長が177センチもあるでしょ。ついでに腕も長いのね。
だから、天井が低い家で、腕を思いっきり上に伸ばしたりすると、冗談抜きでツキ指とかしちゃうわけで…。
前に友人宅で、電球を椅子にも乗らずにそのまま、ひょいと変えてあげたら、ものすごくびっくりされました。
通常の天井では椅子なんていりません。

それから…実はわたくし握力がすごくあるのね。
手がもともと大きいってことが関係あるのかもしれないけど、明らかに普通の女子や軟弱な男子より強い。
もっとも、ごっつい男性には全然かなわないのだけど。
だから、蓋も自分で開けられる。
でも、これは黙っていれば誰も知らないことなので、男性が「かしてごらん、開けてあげる」と申し出てくれた際には、「ありがとう~~~」と可愛いふりをしておきます。

それから、もともと工作が好きなので、ねじを回したりする必要のあるお仕事、水道の蛇口に濾過機をつけてみるとか、全自動洗濯機のホースの設置とか、全部自分で出来てしまうのね。

そういえば、ビデオやパソコンの配線だって分かるし…
(男性がわたくしに設定の仕方を聞いてくることもあったりして)

可愛くない女だなぁと思います。

そんなことより、こんなときに男性がいてくれたらなぁと思うのは、外食するとき。
わたくしは食べる量が少ない。
一人ではたくさん注文できないので二人だと便利。
お肉とか食べられないので、自分が食べられないものを相手が食べてくれる。

先日、上野でもんじゃ屋に一人で入ったのだけど、一種類のもんじゃしか食べられないから、つまんなかった。
旦那さんと一緒だったら、二種類頼んで、わたくしが四分の一の量で二種類の味が味わえたのに…と思って何だか非常に寂しくなったのでした。

6月
2009

何度見ても校正ミスはあるのよね

校正に関係のあるお仕事をしていらっしゃる方は、その怖さをご存じだと思います。

先日、あるクライアントの契約書を渡され、大丈夫だと思うけど念のために日本語と中国語を照合してほしいとのことでした。
わたくしはそのミスを見落としてしまいました。
さいわい若い弁護士さんは目ざとく発見しました。

「…すべての権力を譲渡する。」

もし、翻訳に関係なく、まっさらな状態で普通に日本語だけ又は中国語だけ見たら、どう考えたって原文作成者が「権利」と打つべきところを「権力」と打ち間違えたなと気づく文章ですよね。
私人間の契約に「権力」は出てこない言葉ですもん。
(ちなみに中国語では権力と権利は同じ発音記号になりますから変換ミスでしょう。)

これを見ながら若い弁護士さんと、
「朕はすべての権力を我が愛妃に譲渡する~」
とかいう契約書や遺言を書いてみたいよと大笑いしました。

バカなこと言ってないでちゃんと仕事しろって。。。

6月
2009

田山花袋の蒲団に考える

今日の日経ビジネスオンラインに古川 琢也「若い子にモテたつもりで、『蒲団』に突っ伏して泣かないために~「尊敬」を「恋愛」と取り違えた男の悲喜劇」と称して「蒲団・重右衛門の最後 」田山花袋著、新潮文庫、362円(税抜き)の書評がアップされていました。
中年の作家が若い女性の弟子に惚れ、最終的に弟子が使っていた蒲団に顔を埋め、匂いを嗅ぎながら泣くという、ちょっと引いちゃうあらすじはよく知られていると思います。

古川 琢也氏はこの話と昨今の大学教授のセクハラ訴訟を重ねてみると、かつては原告と被告のどちらかが嘘をついていると思っていたが、この本を読んでみると、どっちの言い分も本人サイドからしてみたら真実なのだろうなぁ述べられた上で、何も作家や大学教授に限らず、一般企業人で指導的立場にいる人にも当てはまるんじゃないかとお書きになっておられます。

教わる側が向ける尊敬の念と、恋愛に特有なロマンティックな感情とは必ずしも重なるものではない(というよりむしろほとんどの場合、根本的に別物ですらある)ということをよくよく理解しておかなければいけない。そのあたりを早合点すると、我々も蒲団に突っ伏して泣くことになる(くらいで済めばまだいいが、 改正男女雇用機会均等法も施行されている現在、場合によっては民事事件、刑事事件の被告にもなりうる)。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090602/196450/

わたくしには大好きで尊敬しているご年配の先生や兄弟子、仕事相手がいっぱいいますから、そういう女性の気持ちは本当によく分かります。
もし、わたくしが美人だったら、先生や兄弟子は変な気を起こしたかもしれないので、今になって思うと、美人でなくて、よかったなぁと思ったりするのです。

ところで、古川氏はこうも書かれておられます。

とはいえ世の中のあらゆるケースに例外があるように、この場合も例外、つまり「尊敬」と「恋愛感情」が重なってしまうことがまれに実在するから困ってし まう。そうした少数の例外がある以上、「他の連中はどうあれ、俺は違う気がする」と思ってしまうのも、また無理ならぬことだ。

これも、よく分かります。
わたくしは例外も経験しておりますから。
なぜなら、わたくしの夫は大学の教員で、それこそ、この「蒲団」の主人公と弟子の年齢差よりも大きい年齢差があったりします。

石川氏は男性なので、若い女性の気持ちは体験できないからか触れられておりませんが、若い女性は、容易に「尊敬」と「恋愛」を錯覚、つまり自分自身でも取り違えることがあるので、話はもっとやっかいですね。
わたくしもかつては若い女性だったので、若い女性の気持ちはよく分かります。
わたくしの想像ですが、宋慶齢と孫文の結婚にもそういう感じがあったのではないでしょうか。
ぶっちゃけた話、わたくしも夫に初めて会った頃は、おそらく「尊敬」と「恋愛」を錯覚していたような気がしないでもありません。
(もちろん、それだけでは今に至りませんが。)

これまで、セクハラ訴訟の原告にもならずに、上司の愛人にもならずにここまで平穏無事に生きてこられたのは、おそらく、わたくしが美人でなかったからなのだと思います…

6月
2009

今、法学研究者志望者っているの?

先ほど、情報ネットワーク法学会のメルマガを読みました。
メールマガジン編集担当理事の湯淺墾道先生の編集後記に次のようなお話がありました。

法科大学院制度の発足の影響を受けて,法律学関係の学会では軒並み若手会員の入会が減少しているようです。オーバードクターや博士フリーター問題が深刻となっており,全体的に研究者志望者が減少しているのではないかという話もあります。法律学においては,そもそも今後法律学研究者という存在自体が成り立つのか—-法科大学院を修了して司法試験に合格した後,さらに大学院博士課程に進学して学生を続けようという酔狂な人がいるのか—-という問題もあります。
IN-Law Newsletter第120号(2009-06-01/1,372部発行)
情報ネットワーク法学会メールマガジン編集担当理事湯淺墾道

わたくしが20代だった頃から、大学院、特に博士後期課程に進む人は「入院」なんて言って、いつ退院できるかどうか分からない人生おしまいみたいなイメージがあったし、本人はそれでも研究したいのだからしょうがないじゃん、みたいな諦めもあったけどね。

確かに、憲法とかだと「法学研究者」という職業は成り立ちそうですが、会社法や経済法と言われる分野では本当に難しいような気がいたします。
いつも思うのは、政治とか歴史等の社会科学分野で博士学位を持っていれば、それなりに専門家ですが、日本では法学で博士を持っていても、弁護士じゃなかったら何の役に立つのか、企業の法務部で実務を勉強する機会がなければ、結局一体、あんたは何なの?というのが現実なので、確かに若手研究者なんて、よほど酔狂な人かよほど鈍い人(わたくしですね)、もう少し控えめに言えば、忍耐強い人でなければ、精神的におかしくなるだろうと思います。

先日、出版社の方とお話していても、「「実務に直結」する本でないと、最近は売れませんね」としみじみおっしゃられていました。

しかしながら、実務にはあまり関係ない話がしたいとき、わざわざ、わたくしを探す酔狂な方もおられるので、生きててよかったなと思います(^^;
しかしながら、法学研究者になりたいのだけれどと若い子が言ったら、一発で司法試験に受かるようなとびきり頭の切れる人でもない限り(そういう人はわたくしにそんなこと言うはずないですけど)、「やめといたら?もっと楽しい人生の選択肢がたくさんあると思うよ」と言うと思います…