12月
2009

体力のないワタクシ

昨日は1日中会議でした。

会議の内容をすべて通訳したわけではないけれども、死ぬほど疲れました。
もっと頭を使っているはずの弁護士はピンピンしております…
彼女は「人」ではない…きっと「ドラえもん」のようなロボットなんだ~と再認識しました。

いちおう、別の仕事も抱えていたので、家に帰ってから仕事をしようとしたのだけれでも、パソコンを立ち上げた後、いつの間にか意識がなくなってしまい、1時間後に机に突っ伏して寝ていたのでおでこが痛くて目を覚ましました。
あぁ、これがわたくしの限界なんだ…

司法試験が超簡単だったとしても、弁護士にだけはなれないというか、なりたくもない…

12月
2009

ワニで遊ぶ

最近、ワニのぬいぐるみが若い弁護士さんの机の上にあります。
ワニの口には手を入れることができ、そこに自分の手を入れて頭をのせると、自分の腕が枕に変身!という女の子が如何にも好きそうなグッズです。
わたくしは、これを手袋にして外を歩きたいなぁと言ったら、さすがに、でかすぎて、目立つからやめなさいと止められました。

あまり可愛いので
「ワニ、ワニ~~~」と日本語で言いながら、手にはめて喜んで若い女性弁護士Sさんの周りで遊んでいたら、S弁護士が急に「玩にぃ?(wanrni)」と首をかしげました。
「ワニ」という言葉を「わぁにぃ」と間延びさせて発音すると
「玩(遊ぶという意味の漢字)にぃ(ニイハオ!のニィで、あなたという意味の漢字)」
という中国語に聴こえるようで、つまり「あなたをからかってますよ~」「冗談ですよ~」というニュアンスになります。

ははは~
でも、まさにワニのぬいぐるみ枕で、S弁護士に遊んでくれ~って言っているのだから、意味的には間違っていないのですが。
「わに」は動物のワニ(鰐)のことだよと説明して二人で「わぁにぃ、わぁにぃ」と遊んでいたら、パートナー弁護士が通りかかって…(^^;
マズイ…

12月
2009

スランプの原因と価値観の転換の必要性

「息のコントロールができない」「思ったような音色が出せない」「10年たっても、人前で演奏するのは無理」だと思いつめて笛子から柳琴に浮気をしたわけですが、結果的に見ますと、柳琴も結局、思ったような音は出せなかった…(結論出すの早過ぎ?)
音の出せる楽器を自分の思い通りの音色が出せる順番に並べてみると(思い通りに“弾ける”じゃないよ、あくまで音を出した時にイメージ通りの“音色”が出るって言う意味だよ。そうでないと、とんでもない誤解を招くわ…わたくしはもう「エリーゼのために」すら弾けない人なんだから)
ピアノ、リコーダー、笛子、バイオリン(これは今、音そのものを出せるか自体に自信ないけど20年前の記憶によります)、柳琴の順番になったりします。
柳琴、最下位じゃん…

いちおう、リコーダーを除いて、すべて独学じゃなくてちゃんと先生に教えてもらった筈なのに、何一つ上手くならなかったのは、「続けられなかった」ことが原因です。
なにゆえ、好きなのに続けられないのでしょう…

お稽古ごとに限らず、よく他人から理想が高すぎると言われることがありますが、多分、そうなのでしょうね…正直、プロの演奏やプロの通訳でも、「あ、ここ下手くそだな」と思ったり「あ、ミスったでしょ」とかなり残酷に心の中で呟くこと、ありますもん(じゃあ、自分はその人を上回る実力なのかと問われれば、全く及ばないのですが、そんなことは横に置いておいて、あんたプロだろって思いますもん。だから他人もきっと自分のことを厳しい基準で見ているに違いないと考えたりします)。

語学に関しても、通訳業で飯を食っているわけではないので、「それだけ喋れれば十分でしょ」と一般の人には言われますが、自分に言わせれば、言いたいことの半分も表現できていません…この程度、喋れても、もっと高いレベルに到達していなければ、結局、ほとんどできない人と十把一絡げにされるんだろうし、使い捨てにされていつ失業するか分からないし、それじゃあ、意味ないじゃんね、って思ってしまいます。

この0か100かという考え方は経験上、精神的には非常に危険な思考パターンだと承知していますが、世の中、結局、肝心な時にできたか、できなかったかだけで判断されるんじゃないの?という不信感が根底にあるので、50点や80点じゃあ、意味ないんだよね…
実際、80点、90点で大きな顔ができるのは学生の試験だけでしょう。社会人の90点なんて、今の世の中、所詮10点も足りないねという評価でしかない。

まぁ、こういう人間は結局、何やっても自分で自分に嫌気がさすので、何一つまともにできないうちにさじを投げることになってしまう。
そうならないようには、どうしたらいいか。

新刊ではないのですが、先日読んだ岡本浩一著「上達の法則」PHP新書には、スランプの構造と対策についていろいろヒントが書いてありました。

わたくし自身は何につけても子どもの頃から、ぐずで頭の回転も悪く不器用なくせに、頭の回転の速い賢い人たちの中で勉強したり仕事をしてきたので、とにかく評価する眼だけはやたら厳しくなっています。例えば、楽器演奏に関しては、カルチャーセンターに行ったことがなく、発表会とやらにも出たことがないので、自分と同じくらいド下手な人の演奏を聞いたことはあまりなくて、間近で聞いてきた音は先生のおそろしく綺麗な音だけ。つまり雲の上の人の音だけがインプットされて、イメージだけが頭の中で大きく膨らむので、それと同じ音にならないのが苦しくてしようがない。語学に関しては、二ヶ国語以上をビジネスレベルで使える人たちの間で仕事をしてきて、あんた何人なのと思うくらい綺麗な日本語を使用する中国人や英語をペラペラ話す日本人や中国人ばかりが周囲にいたので、この人たちのようなレベルの人が基準になってしまい、自分の中国語の出来なさ加減がおそろしく恥ずかしい。
あるとき夫に、「みんな外国語を自由に操れるのに、自分は思い通りにならない」というようなことを言ったら「二ヶ国語以上、自然に難なく操れる人がごろごろいる職場っていうのはそうあるものじゃないよ」と言われて、「え、そうなんだ」と驚きました。

このように評価する眼だけがやたら発達してしまい、自分の技能との間におそろしく大きな溝ができてしまう。
その溝は凡人にはなかなか狭めることができないので、本当に苦しい。

評価のための眼が発達しすぎてしまうと、これはもう元には戻らないのだそうな。
そうすると、もうこれは価値観の転換をするしかないそうで、一般的には評価のためのスキーマと自分の技能のためのスキーマを分けて考えて、二重の基準をもつとよいのだそうです。
雲の上の人は雲の上の人として、自分は自分として見つめることができれば、また地道に努力もできるってものです。

この手のスランプの脱出方法としてもうひとつの選択肢は、現役を引退して教師の立場になった人のように、評価のための眼はそのままにして、自分の技能の向上を放棄することだそうです。

いくとこまで行っちゃった人が教師になるのなら、それでもいいけど、五合目にも達していない今のわたくしは技能の向上を放棄するわけにいかないので、一般的な方法、つまり自分の中にダブルスタンダードを設けるよう、工夫する必要があるのでしょうね。

とても難しいですが、できるかぎりそうしていかないと、この先、生きていけないよね。
残りの人生、面白おかしく生きるために、ここらで強引に思考パターンを変えてみたいと思います。

11月
2009

そろそろ2009年の総括?

アパートの部屋がごちゃごちゃしてきたので、片づけました。
冗談抜きで、わたくしも「のだめカンタービレ」の「のだめ」ちゃんのように片付けが苦手なのです。
夫はいつも、わたくしが帰国すると「路上で、がらくたを売っている露天商のようだね」と言います。
本棚を買っていないので(そもそも買っても収まりきらないので無駄)、書籍はほとんど、床の上に積み上げていますが、CDとDVDは机の上に積み上げていたので、それがだんだん、崩れてきそうでやばかった。

ほんと、音楽教材のDVDやらVCDをいろいろ持っているなぁと感心してしまいました。
今度は中国音楽教材の翻訳したいなぁ、マジで。
西洋古典音楽は、名曲の特集とか解説とかいろいろあるのに、「はじめての中国古典音楽の鑑賞ガイド」って聞かないよね(わたくしだけ?)誰か書いてよ…

今年を振り返る時期になりましたが、2009年は本当にどうしようもない1年でした。
あることをきっかけに精神的に頑張りが利かなくなって、仕事や研究方面では今まで頑張ってきた余力でとりあえず走り続けることができただけで、新しいことは何一つできませんでした。2009年前半は努力の空回り、後半はとりあえず労力を提供していただけ。
昔、台湾人の友人の旦那様に見ていただいた風水によれば、40歳からは放浪生活に終止符を打って落ち着けるらしいですが…本当かな。ぶっちゃけ、数え歳なら、もうすぐなんです。仕事以外のときの言動が子どもっぽいせいで若く見積もっていただけるようですが…

柳琴の先生の龍海先生に「若くないから、新しいことをすぐに覚えられないよう」と訴えたら、「いくつよ」と聞くので(中国人はけっこう遠慮なくいろいろ聞きます)、「聞かないでよ」と突っぱねたら「30?(笑)」と言われました。ありがとう、そんなに若いですか、ワタクシ(^^;
もっともレッスンに行くときに着けている手袋にでかいウサギのぬいぐるみがついていたり、柳琴のソフトケースのファスナーに楽器を演奏しているキティちゃんのストラップを3個付けているのがいけないのでしょうかねぇ(沖縄の三線と笛と太鼓を演奏しているキティちゃんのセット)。

2009年最大の変化は、中国音楽にどっぷり浸かったことでしょうか。
努力の空回りでがっくりきていると何だかんだ言いながら、ずいぶん、楽しく生きているじゃないと笑われそうですが、おじさんが退勤後、おねえちゃんのいるお店に行って飲むのと同じで、これがないともう、どうにも生きていけないのです(笑)。
音楽って麻薬ですね、「令人如何痴如何醉」です。

このブログも音楽ネタが多くなりすぎたので、音楽ネタだけ別ブログに移そうかなと検討中です。

11月
2009

わたくしは甘い先生

自分の携帯電話のアドレスをみると、つくづく「先生」ばっかりだと思います。
弁護士が「先生」かどうかは置いといて(教えを請わなければならないことは何一つないという理由で本音は弁護士を「先生」とは呼びたくないとおっしゃる人も世の中には多数、存在するみたいですが、わたくしは別に何とも…長いものには巻かれています。)、ほんと、先生だらけ…

平日は弁護士の「先生」たちの中でお仕事。
週末は音楽の「先生」のもとで、お稽古。
ついでに、中国人に日本語を教えて、自分も「先生」と化す…

しかし、お稽古の先生というものは厳しいよね。
わたくしが現在、日本語の家庭教師をしている中国人は音楽教室の事務の先生なのですが、事務の先生とはいえ、ピアノや琵琶をそこそこお弾きになられます。
よく子どものピアノの試験前には、練習の面倒も本業の先生に代わって見ておられます。
で、彼女、いい大人になったけれども、やっぱりもっときちんとピアノを弾きたいと思い、ここ最近、子どもの頃のリベンジで、自分もピアノを習っています。
先週、先生にキツイことを言われて、レッスン中に泣いてしまったそうです。
ま、気持ちはよーく分かる。
先日ピアノの先生が彼女に「あなたの日本語の先生は多分、相当、優しいつーか、甘い人なんじゃないの?全然、おさらいしてなくても怒らないんだ?」と不思議がっておられたそうな。

まぁ、わたくしは、日本語教師として講義した経験はないけど、何人かの中国人の家庭教師は頼まれれば、これまでしてきました。
うん、わたくしは基本、とっても甘いです。
生徒がやらなくても怒らない(^^;だって、上達したけりゃ、やるしかないわけで、サボればそれなりの効果しかなくて、全部自分に跳ね返るだけで、わたくし自身、別に痛くもかゆくもないもんねぇ…
それに、わたくしの場合、文法をきちんと教えられないし(右脳で言語を理解する人だから…)
こう言ってしまうと、すごい無責任な先生ですね、ワタクシ。
でも、目的のある人は最後はちゃんとやってるくるから、放し飼い状態。

そこいくと、音楽の先生というのは、ものすごく厳しいですよね…
かなりキツイこというし…
レッスン中に泣くなんて、結構、皆経験あるよね。
ちなみに、わたくしが通ったことのあるところなんて、音大付属とか目指している立派な音楽教室ではなく、あくまで趣味教養レベルの教室ですけど。
あ、でもカルチャーセンターみたいなところだったら、生徒を泣かせることはないのかな。
(行ったことがないので分からない…)
もっとも、才能のあるなしなんて、かなり上のレベルの人の話であって、それ以前の問題としては結局は練習量の多い少ないの問題だから、「なまけるな~」とカツを入れたくなるのでしょう。
そこまで生徒に感情移入して、疲れないかなぁ。
(ちなみにピアノの先生方は日本人のお子さんは真面目に練習してレッスンに来るからやりがいがあるけど、数年で帰国してしまい、これからだっちゅうところで手放さなければならなくなるので(?)、とても悲しいのだとか)

専門家の練習量と言うのは半端じゃないので、それに比べれば、1日1、2時間の練習なんて練習のうちじゃないのでしょうね。
この点、語学と一緒です。
かなり上のレベルの人になるには「才能」が要りますが、ビジネス会話程度じゃ、単なる「慣れ」だよね。
どれだけ、使ってきたか、それにすぎないのだと思います。

11月
2009

明朝有意抱琴來

昔に比べたら、男は男らしく、女は女らしくという固定概念はずいぶんなくなったのだろうと推測はできる…できるけど、やはり、今でもあると思う。

中国語で師匠のことを「師傅」(shifu)といいます。

(1)師匠.先生.親方.
(2)特殊な技能をもつ人に対する尊称.
【補足】知らない人への呼びかけにも用いる.
(3)〈俗〉(一般人に対する呼びかけ)先生.
小学館中日辞典第二版

弟子が先生や親方の奥様のことを何て呼ぶかと言いますと
「師母」(shimu)
わたくしも指導教官のお宅に電話するときはいつも奥様が出られるので、「師母、こんばんは、先生はいらっしゃいますか」と挨拶しておりました。

これ「師母」と対になる言葉があるかといいますと(つまり、女性教師の配偶者はどう呼べばいいの?)、これがないのです。
「師父」でいいんじゃないの?と思うかもしれませんが、師父の意味は「師傅」と同じか、宗教指導者の敬称になってしまうのです…

(1)師傅
(2)僧•尼•道士に対する敬称.
小学館中日辞典第二版

昔は、そもそも師匠と言うものは「男」と相場が決まっていた…ってことなんでしょうかね。
今時は女性の研究者もいるけど、多いかと言われれば、分野によっては多くないよね…
ある法律の制定に貢献されたある著名な学者は、奥様の第一子出産時にもずっと研究所で研究をされていて、後で奥様に恨まれたとどっかの随筆に書かれておられましたが、これって、人間的に見ればどうなの?って感じですが、男性だと「立派だ」という美談になるから、ずるい。
女性が同じことしたら、どうかな。

わたくしは博士論文を書いていた時の終盤はよく部屋にこもって延々、パソコンと向き合っていたのだけれども、よく晩御飯を食べ忘れました。
適当に自分で晩御飯を作って先に食べていた夫が、ずっと部屋から出てこないわたくしを心配して「飯はちゃんと食った方がいいよ」と声をかけてくれるまで、没頭していて晩御飯の支度どころか自分が食べるのも忘れていた…
姑がいたら、わたくしなんて100回以上殺されているでしょう。

ところで、中国の3世紀半ば頃、清談(中国魏晋時代に流行した哲学的談論)を事とした7人(竹林七賢人)の中に阮咸(ゲンカン)という人がいます。とんでもない飲んだくれだったそうですが、琵琶がとても上手かったらしい。これは今の琵琶とはちょっと違って、月琴の首が長くなったみたいなやつでして、後に同じくリュート系の楽器の琵琶と区別するためにその楽器は「阮咸」と呼ばれるようになりました(奈良の正倉院の螺鈿の琵琶は有名ですが、「螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんげんかん)」にも注目してあげてね。)
ちなみに今ですと東京国立博物館で特別展「皇室の名宝—日本美の華」(今月29日まで)で「螺鈿の阮咸」が出ていると思います…行きたかった…

で、この賢者、度を越した酒飲みだったそうで、竹林で酒飲んでリュート弾いて、政治を批判して暮らしていたわけです。
現代でも一昔前の学者の中には、酒飲んでから講義したっていう男性もいるらしいけど(その方が饒舌に喋れるからという言い訳)、女性だと「さすが、XX先生やるじゃん」とう話にはならないよね(^^;
(今時の大学では問題になると思うので、せいぜい、コーラかコーヒーでテンション上げてくださいってところでしょう)

ところで、女性が楽器の名手として名を残すなら、まず美人でないと難しいような気が…
女性が大酒食らって、ギターかきならして、政治の話…多分、許されない。
もっとも、わたくしは酒が全く飲めないし、政治の話で熱くなるタイプではないので、お酒飲んで醜態さらして、「女のくせに」って言われることはないから、関係ないといえばないけど、ちょい不公平な気もする。

わたくしが大学教員だったとして、夜遅くに学生が訪ねてきたと仮定しよう。

学生:「先生、夜遅く申し訳ないんですが、質問が…」

游鯉:「我醉欲眠君且去」
(いい加減な現代訳:オレ、酔っぱらっちゃった~眠いんだよね~キミ、悪いけど帰ってくんない?)

学生:「いや、ひとつだけ、ちょっとお聞きしたいだけで…」

游泳:「明朝有意抱琴來」
(明日の朝、その気があったら、琴でも持ってまた来てよ~)
-李白「山中對酌」より

と言ってみたかった…(^^;
一曲弾いてくんなきゃ、質問に答えてあげないもんね。

11月
2009

熟練、上手、下手の言葉の真意

中国語と日本語でニュアンスや意味の違う言葉があることは、昨今よく知られているところですが、今回はお稽古ごとに関する語彙で不思議な言葉を紹介しましょう。

中国語の「熟練」を辞書で引くと、次のとおりです。

shúliàn【熟练】
熟練している.上手である.
¶她打字很~/彼女はワープロがとても上手だ.
¶你的日语说得还不够bùgòu~/君の日本語はまだあまり上手ではない.
¶~工人/熟練工.
小学館日中・中日辞典 第2版

じゅくれん 【熟練】
(名・形動)スル [文]ナリ
十分に経験を積んで、上手なこと。高度な技能と経験を有すること。また、そのさま。
「―した運転」「―労働者」「―な漁師は/土(節)」
三省堂 大辞林

ふーん。日本語と同じ意味だね。と思って油断してはいけない。
以下のような中国語は「上手」と訳すわけにはいかないでしょう。

「老師,怎樣努力也彈不了這個小節(先生、どうやってもこの小節が弾けません)」
「熟練,就好了!(直訳誤訳:“熟練”すりゃいいんだよっ)」

辞書通りにそのまま訳しちゃうと「上手になれば、よいのです」となってしまい、禅問答ですな…上手だったら、練習する必要ないじゃん(^^;
ニュアンスを正確に訳せば、「慣れるまで練習しろ!」ということでしょう。
もっとも「熟」という言葉の意味には「慣れる」という意味もあるから、よくいわれるように、「ご飯を食べるのと同じように、日常になるまで、練習し続けろ」ということですな。

次は「上手」
これを中国語の辞書を弾くと

shàngshǒu【上手】
(1)始める.取りかかる.
¶今天的活儿一~就很顺利shùnlì/きょうの仕事は始めからとても順調だった.
(2)〈方〉手を出す.
¶这点儿事你们就别~了,我一会儿就干完/君たちはこんなことにかかずらうな,私がすぐにかたづけてしまうから.
(3)(~儿)順調だ.
¶工作很难,总zǒng不~/難しい仕事で,なかなか軌道に乗らない.

小学館日中・中日辞典 第2版

となり、日本語の「上手」という意味はまったく見当たりません。
でもね、琵琶について調べたりすると、例えば次のような文章に出くわします。

小孩子学琵琶。手指长度不够,在练琴时有困难,抱琴也有些困难。 还是鼓励年纪很小的小朋友学古筝,上手快些。

(参考訳:子どもが琵琶を習うということですと、指の長さが足りないので、練習や構える時に困難を伴います。とても小さなお子さんが琴を習うのであれば、上達するのも早いのでおススメですね。」

ニュアンス的にほとんど、「上手」と同じ意味で使っているよなぁ。
軌道に乗るのが早いというニュアンスなのでしょう。

それに対して中国語の「下手」には日本語の「下手」と同じ意味はみじんもありません。
中国語の意味は、基本的に漢字の意味そのままです。
「手を下す」(なんかこわ~い)

そもそも「手を下す」ことがなぜ、物事のできが悪いことを指すようになったのか、疑問ですなぁ。
と思ってネットで調べてみると「端」や「辺」が語源なのだそうで(末端とか底辺にいる人ってことなのでしょうね)漢字で「下手」と書くのは「下等」からきているのだそうな。
参考:語源由来辞典 http://gogen-allguide.com/he/heta.html

11月
2009

心がマグロ?

日本語で「腹黒い」といえば、

陰険、陰湿な 、表・裏がある、意地が悪い 、下心のある、はかりごとをめぐらすといった意味ですね。
当然、中国語にも似たような表現があり、「心黒」といいます。
意味は、以下の通りです。

(1)腹黒い.陰険悪辣(あく らつ)である.
(2)欲が深い.貪欲である.
(出典:小学館日中・中日辞典 第2版)

ときどき、日本語ができる弁護士さんたちとの雑談で「あなたの心はまっくろ~」と直訳調の日本語でふざけあったりするのですが、
若い女性弁護士Sさんがふと、

「わたしのこころは“マグロ”~」

と言ってくれまして、妙につぼにハマってしまい、ずっと笑い続けました。
わたくしの頭の中ではS弁護士の頭の中とお腹の中でマグロが泳いでいる様が目に浮かびしまして、仕事中なのに思い出し笑いが止まらない…
「こんなくだらないことで、笑えるなんて、あんたたち、どうかしている」と同僚に言われる始末。
S弁護士は20代だからともかく、わたくしなんぞ箸が転がっても笑えるような年ごろはとうに過ぎたのに、こんなに笑えるなんて、どうしようもないバカですね。

嫌な奴にあったら、思わず、「心がマグロですね」って言っちゃいそうだ(^^;

11月
2009

締切が…

法律事務所の仕事の締切は当然、勤務時間中になんとか終わらせて、無責任なことはできないけど、それとは別の締切については、もうクビが回らなくなってきた…

例えば、某弁護士の出版のお手伝い…ごめん、後10頁、今日中に終わらせられるかどうかわかんねぇ。
それとは別の某弁護士の研究のお手伝い、ちゃんと自分の持分は完成させたぞ、早くあなたの原稿ちょうだい~~~!
ある方のご好意で、なんか分かんないけど、地方の職業技術系の学校で、学生に知財の話ししてみないかと言われたけど、パワーポイント資料、現在、作成中。
(1カ月、待ってくれるって言ったよね???)
ある公募のための履歴書作成中。(望みはほとんどないけど、いちおう出しておかないと…)

やはり時間の使い方が悪いのだと思う、きっと。
疲れて頭が回らなくなってくると、無理に仕事したって、余計に効率が悪くなるので、とりあえず放り出して、柳琴のレッスンに行ってしまおうと決意するのでありました。
先生方、すみませんねぇ…
もう、ただでさえ少ない脳みそが腐り始めました…

11月
2009

研究のおすそ分け

以下は、公開御礼状みたいなものですが、生きる気力のない若手研究者の参考になるかもしれません。

先日、東京の某大学の先生に北京でお会いしました。
そこで、いろいろ話を聞いていただいたのですが、次の言葉が印象的でした。

「私の指導教官は、自分が面白いと思うことを研究して、それをおすそ分けするような気持で論文を書きなさいと言いましたよ」

このときに、ふと「古琴」という楽器を思い出しました。
博物館や骨董屋でお目にかかることができますが、現代でも楽器街の弦楽器専門店に行けば普通に売っています。
琴柱のない小さな7本の弦がはってある琴で、音もとても小さいですね。
孔子が愛した琴です。
琴は誰のために弾くのでしょうか?
古代、演奏家という概念はありませんでした。
琴は文人の余技で、琴奏者としての文人は、自己のため、あるいは一人の友人のために琴を演奏しただけです。
社会的地位を求めなくても身分は保証されていましたので、演奏家として大衆に媚びたり、小銭を稼いだりして、自分の場所を確保する必要がないわけですね。

で、後日、わたくしはこれまた悪態ついて、

「わたくしのような者は、サントリーホールで演奏できる一流の演奏家ではなく、酒場でお客さんの機嫌をとってなんでも演奏するその場限りのプレーヤーですから、生き残るために何でもやらないといけなかったんです」

というようなことを言ってしまい、もっとも、学問というのは、これじゃいけないって分かってるんですけどね…と付け加えました。

そして、また数日後、ふと思ったのです。

先生は、研究を「みんな」に「おすそ分け」しているので、一人琴をお弾きになっている、又は一人の知音のためだけに弾いているわけではないと思います。
そう考えると、わたくしのしたいことと、大差ないのかなって気もしてきました。

例えると、わたくしもは別にサントリーホールで演奏できる奏者になりたいわけじゃないんですよね。
(そもそも、なりたくたって、なれるもんじゃない)
ただ、一定の社会的身分を維持し続けないと、演奏そのものが続けられない、誰も声をかけてくれなくなる、それが怖い、というのはありますが。

で、本当にしたいことは何かと言えば、レストランで、客に媚びることなく、他人と一緒になって合奏したい、そういうことなんです。
ちょっと古琴のスタイルじゃないですね(^^;
つまり、場所がサントリーホールじゃないから、あるいは一流の演奏家でないから「面白いこと」の「おすそ分け」ができないということはなく、大衆レストランだって「面白いこと」の「おすそ分け」は可能なんですよねぇ。
客に媚びるかどうか、「どうせ」という気持ちでやけくそで演奏して自分で自分を傷つけるかどうかは、結局は自分次第じゃないですか。

なんだ、先生の言ってることも、すごく高尚なことじゃないんだな(失礼!)と思えてきました。
「面白おかしく」研究し続ける気力が少し出てきました。
で、どこかの巨匠にサントリーホールにおいでと急に言われても、即興で演奏できるように、機会を逃さないように地道に練習し続けないといけないってことなんですよね。
先生、忙しいのに数時間つきあってくださって、ありがとうございました。

P.S
沖縄のサンシン、わたくしも聴いてみたかったです。機会があれば、わたくし笛子を吹きますので、ぜひ、歌ってください。