11月
2009

研究のおすそ分け

以下は、公開御礼状みたいなものですが、生きる気力のない若手研究者の参考になるかもしれません。

先日、東京の某大学の先生に北京でお会いしました。
そこで、いろいろ話を聞いていただいたのですが、次の言葉が印象的でした。

「私の指導教官は、自分が面白いと思うことを研究して、それをおすそ分けするような気持で論文を書きなさいと言いましたよ」

このときに、ふと「古琴」という楽器を思い出しました。
博物館や骨董屋でお目にかかることができますが、現代でも楽器街の弦楽器専門店に行けば普通に売っています。
琴柱のない小さな7本の弦がはってある琴で、音もとても小さいですね。
孔子が愛した琴です。
琴は誰のために弾くのでしょうか?
古代、演奏家という概念はありませんでした。
琴は文人の余技で、琴奏者としての文人は、自己のため、あるいは一人の友人のために琴を演奏しただけです。
社会的地位を求めなくても身分は保証されていましたので、演奏家として大衆に媚びたり、小銭を稼いだりして、自分の場所を確保する必要がないわけですね。

で、後日、わたくしはこれまた悪態ついて、

「わたくしのような者は、サントリーホールで演奏できる一流の演奏家ではなく、酒場でお客さんの機嫌をとってなんでも演奏するその場限りのプレーヤーですから、生き残るために何でもやらないといけなかったんです」

というようなことを言ってしまい、もっとも、学問というのは、これじゃいけないって分かってるんですけどね…と付け加えました。

そして、また数日後、ふと思ったのです。

先生は、研究を「みんな」に「おすそ分け」しているので、一人琴をお弾きになっている、又は一人の知音のためだけに弾いているわけではないと思います。
そう考えると、わたくしのしたいことと、大差ないのかなって気もしてきました。

例えると、わたくしもは別にサントリーホールで演奏できる奏者になりたいわけじゃないんですよね。
(そもそも、なりたくたって、なれるもんじゃない)
ただ、一定の社会的身分を維持し続けないと、演奏そのものが続けられない、誰も声をかけてくれなくなる、それが怖い、というのはありますが。

で、本当にしたいことは何かと言えば、レストランで、客に媚びることなく、他人と一緒になって合奏したい、そういうことなんです。
ちょっと古琴のスタイルじゃないですね(^^;
つまり、場所がサントリーホールじゃないから、あるいは一流の演奏家でないから「面白いこと」の「おすそ分け」ができないということはなく、大衆レストランだって「面白いこと」の「おすそ分け」は可能なんですよねぇ。
客に媚びるかどうか、「どうせ」という気持ちでやけくそで演奏して自分で自分を傷つけるかどうかは、結局は自分次第じゃないですか。

なんだ、先生の言ってることも、すごく高尚なことじゃないんだな(失礼!)と思えてきました。
「面白おかしく」研究し続ける気力が少し出てきました。
で、どこかの巨匠にサントリーホールにおいでと急に言われても、即興で演奏できるように、機会を逃さないように地道に練習し続けないといけないってことなんですよね。
先生、忙しいのに数時間つきあってくださって、ありがとうございました。

P.S
沖縄のサンシン、わたくしも聴いてみたかったです。機会があれば、わたくし笛子を吹きますので、ぜひ、歌ってください。