本日、前から少し興味のあった通訳の基礎講座を聴講させていただきました。
自分がある言語を理解できること、翻訳できることと「通訳」は別物ですから、その技術や訓練には興味がありました。
やはり思ったことは言語の習得というか、通訳の訓練というのは楽器を習うのや運動選手の基礎トレと同じなんだなぁということです。
講師もピアノを引き合いに出して、「最初は譜面見てたどたどしく弾くしかなくても、練習すれば指が勝手に動くようになるでしょう、それと同じです」というようなことをおっしゃって、毎日訓練してくださいねと言われました(^^;
ちなみにわたくしは記憶力が本当に弱いので、一文を聞き終わってから、更に次の文章が始まった時に、後れて最初の文章をその言語のまま再現できないのです。
(日本語で言われた文章もそのまま日本語で再現できないので、外国語能力の問題ではありません(^^;)
ちなみにその方は95%の努力と5%の野生のカンだともおっしゃっていました。
「誰でも努力すれば世界で通用するようになるけど、最後までピシっと綺麗に決められるかどうかは後の5%にかかっていて、これは特殊なトップレベルの人です。別に我々全員が国際舞台のトップに立つ必要ありませんからね、がんばってください」
だそうです。
運動選手、例えばアニメの「スラムダンク」なんかのDVDを見ていても主人公は必ず基礎を一生懸命練習してますよね。
もっとも先天的な背の高さや運動能力というものはありますが練習しなかったら、ただの宝の持ち腐れ…
笛子にしても、綺麗な音を出せるまでの時間は個人差がありますが、誰だって音くらい出せるようになります(^^;
ちなみに、わたくしの習っている笛子の先生は、毎日最低でも30分、時間が許すのなら1時間はロングトーン(一音ずつ10拍程度長く出し続ける)をしなさいといいます。
わたくしは、この音だけ出し続ける単純作業があまりおっくうではありません。
また、大声で叫ぶのと同じくらい気持ち良かったりもします(^^;
要するに単純な基礎をもくもくとやり続けることができる場合に限って、モノになるということがよ~く分かりました。
その単純な訓練をし続けるにはやはり明確な「動機」が必要だと思います。
動機はひとそれぞれでしょうが「できたらいいな~」というあこがれ程度ではだめだってことですね。
「これができないと生きていけない」とかそういう強烈な動機がない場合、それができるとどんな利点があるかを強烈にイメージする必要があるのではないでしょうか。