先日、梶原一明著「本田宗一郎―不可能を可能にする言葉」を聴きました。
いろいろな成功者の方々に関する本を読み物として楽しませてもらいつつ、どなたも雲の上の人だと言わざるを得ないのですが、本田氏はちょっと特別です。
なぜなら、若くして亡くなった叔父がHONDAに勤めていて、その名前をよく口にしたからです。
学歴の低い叔父でしたが、そこそこ出世できたのはHONDAIUMのせいかもしれません。
故人の伝記は誇張されたりしがちですが、オーディオブックを聴きながら、それにしてもすごい奇人変人ぶりだなぁと笑ってしまいました。
研究熱心なあまり、服を脱ぐのも忘れて風呂に入るなんて日常茶飯事とか・・・
そういう奇人変人ぶりはわきにおいておいて、ちょっと気になった点を紹介。
本田氏は日記を書かなかったそうです。
作文が子どものころから苦手だったという理由もあるそうですが、本当のところは嘘を書くわけにはいかないからのようです。
浮気のこととか書いたら、裁判所も動かぬ証拠として認めるだろうし、真実を書くことが必ずしもよいことではないと言いつつも、反面、日記というのは自分を偽って書き記すおそれがある点も嫌だったようです。
確かに日記やブログは失敗も綺麗事にして、がんばろーみたいに無意味な努力や根性を掲げて自分を演出することも可能ですしね。
わたくしが思うに言葉というのは発したり、書き記すとそこでエネルギーが消費されつくして、そこで「はい終わり」になりかねません。
最高の技術という結果を皆さまのお役に立ててなんぼの彼にとって、書く暇があったら実践、だったのかもしれません。
反対にわたくしは昔から作文は得意でした(中身がよいのではなく字数がすぐにオーバーする)
しょーもないことをだらだら書くのが好き。
作文の授業のときに、突如、何もネタがないことに気づいて困ってしまい「どうしてネタがないのだろう」ということについて、だらだら書いて先生を呆れさせたかと思えば、絵だけで原稿用紙を埋めることもあり「文字を書きなさいね」と先生にやさしく注意される問題児でした。
人には得手不得手があります。
「得手に帆をあげて」というのが本田氏の哲学で、彼は好きな技術を活かして、苦手な経理は他人任せだったというのは有名な話。
自分の得手を早いうちに見つけられた人は幸せです。