12月
2009

スランプの原因と価値観の転換の必要性

「息のコントロールができない」「思ったような音色が出せない」「10年たっても、人前で演奏するのは無理」だと思いつめて笛子から柳琴に浮気をしたわけですが、結果的に見ますと、柳琴も結局、思ったような音は出せなかった…(結論出すの早過ぎ?)
音の出せる楽器を自分の思い通りの音色が出せる順番に並べてみると(思い通りに“弾ける”じゃないよ、あくまで音を出した時にイメージ通りの“音色”が出るって言う意味だよ。そうでないと、とんでもない誤解を招くわ…わたくしはもう「エリーゼのために」すら弾けない人なんだから)
ピアノ、リコーダー、笛子、バイオリン(これは今、音そのものを出せるか自体に自信ないけど20年前の記憶によります)、柳琴の順番になったりします。
柳琴、最下位じゃん…

いちおう、リコーダーを除いて、すべて独学じゃなくてちゃんと先生に教えてもらった筈なのに、何一つ上手くならなかったのは、「続けられなかった」ことが原因です。
なにゆえ、好きなのに続けられないのでしょう…

お稽古ごとに限らず、よく他人から理想が高すぎると言われることがありますが、多分、そうなのでしょうね…正直、プロの演奏やプロの通訳でも、「あ、ここ下手くそだな」と思ったり「あ、ミスったでしょ」とかなり残酷に心の中で呟くこと、ありますもん(じゃあ、自分はその人を上回る実力なのかと問われれば、全く及ばないのですが、そんなことは横に置いておいて、あんたプロだろって思いますもん。だから他人もきっと自分のことを厳しい基準で見ているに違いないと考えたりします)。

語学に関しても、通訳業で飯を食っているわけではないので、「それだけ喋れれば十分でしょ」と一般の人には言われますが、自分に言わせれば、言いたいことの半分も表現できていません…この程度、喋れても、もっと高いレベルに到達していなければ、結局、ほとんどできない人と十把一絡げにされるんだろうし、使い捨てにされていつ失業するか分からないし、それじゃあ、意味ないじゃんね、って思ってしまいます。

この0か100かという考え方は経験上、精神的には非常に危険な思考パターンだと承知していますが、世の中、結局、肝心な時にできたか、できなかったかだけで判断されるんじゃないの?という不信感が根底にあるので、50点や80点じゃあ、意味ないんだよね…
実際、80点、90点で大きな顔ができるのは学生の試験だけでしょう。社会人の90点なんて、今の世の中、所詮10点も足りないねという評価でしかない。

まぁ、こういう人間は結局、何やっても自分で自分に嫌気がさすので、何一つまともにできないうちにさじを投げることになってしまう。
そうならないようには、どうしたらいいか。

新刊ではないのですが、先日読んだ岡本浩一著「上達の法則」PHP新書には、スランプの構造と対策についていろいろヒントが書いてありました。

わたくし自身は何につけても子どもの頃から、ぐずで頭の回転も悪く不器用なくせに、頭の回転の速い賢い人たちの中で勉強したり仕事をしてきたので、とにかく評価する眼だけはやたら厳しくなっています。例えば、楽器演奏に関しては、カルチャーセンターに行ったことがなく、発表会とやらにも出たことがないので、自分と同じくらいド下手な人の演奏を聞いたことはあまりなくて、間近で聞いてきた音は先生のおそろしく綺麗な音だけ。つまり雲の上の人の音だけがインプットされて、イメージだけが頭の中で大きく膨らむので、それと同じ音にならないのが苦しくてしようがない。語学に関しては、二ヶ国語以上をビジネスレベルで使える人たちの間で仕事をしてきて、あんた何人なのと思うくらい綺麗な日本語を使用する中国人や英語をペラペラ話す日本人や中国人ばかりが周囲にいたので、この人たちのようなレベルの人が基準になってしまい、自分の中国語の出来なさ加減がおそろしく恥ずかしい。
あるとき夫に、「みんな外国語を自由に操れるのに、自分は思い通りにならない」というようなことを言ったら「二ヶ国語以上、自然に難なく操れる人がごろごろいる職場っていうのはそうあるものじゃないよ」と言われて、「え、そうなんだ」と驚きました。

このように評価する眼だけがやたら発達してしまい、自分の技能との間におそろしく大きな溝ができてしまう。
その溝は凡人にはなかなか狭めることができないので、本当に苦しい。

評価のための眼が発達しすぎてしまうと、これはもう元には戻らないのだそうな。
そうすると、もうこれは価値観の転換をするしかないそうで、一般的には評価のためのスキーマと自分の技能のためのスキーマを分けて考えて、二重の基準をもつとよいのだそうです。
雲の上の人は雲の上の人として、自分は自分として見つめることができれば、また地道に努力もできるってものです。

この手のスランプの脱出方法としてもうひとつの選択肢は、現役を引退して教師の立場になった人のように、評価のための眼はそのままにして、自分の技能の向上を放棄することだそうです。

いくとこまで行っちゃった人が教師になるのなら、それでもいいけど、五合目にも達していない今のわたくしは技能の向上を放棄するわけにいかないので、一般的な方法、つまり自分の中にダブルスタンダードを設けるよう、工夫する必要があるのでしょうね。

とても難しいですが、できるかぎりそうしていかないと、この先、生きていけないよね。
残りの人生、面白おかしく生きるために、ここらで強引に思考パターンを変えてみたいと思います。